コラム

アイアイだより第120号より

 新年おめでとうございます

 皆様にとりまして 益々良い年でありますよう お祈り申し上げます
 今年もどうぞよろしくお願い致します

 3歳児の保護者の皆様には、これが最後のおたよりになります。3年余りの間、日々の子育ては大変だったことと思います。でも、過ぎてみればあっという間でした。このように、これからも幼稚園、小学校、中学校と、まだまだ子育ては続きますが、決して長く続くものではありません。親子の絆を確かめ合いながら、お子さんの心に寄り添って悔いのない子育てをお続けください。
 私自身、年頭にモットーとしたいと願うことですが、「気が付く」ことが多くありたいと願っています。気付くことによって新しい世界に触れ、生まれ変わって行きたいと願うものです。
 今回の最後の段落の言葉、「それがどんなに幸せなことか、気づいていらっしゃるかしら」などは、外側から教えてもらわなければ分からないことです。自分自身の内側から気付くこともあるでしょうが、窓を開いて外側から気付かせてもらうことも大切なことです。お互いに、より良く生きたいものです。

✿ 「パリのおばあさんの物語」
 (スージー・モルゲンステルヌ著 セルジュ・ブロック絵 千倉書房)
 フランスで子どもから大人まで読み継がれている絵本で、岸惠子さんが初めて翻訳された2008年初版の本です。

 以下は、本文5・29・30頁の抜粋(一部略)です。

おばあさんは小さなアパルトマンに独り暮らしです。
おじいさんに先立たれて一人ぼっち。
子供はいるけど一人ぼっち。

おばあさんは、ナチスがはばをきかせていた1942年の頃をつらく思い出します。夫がユダヤ人捕虜収容所から脱走し、逃げ帰った処を捕えられ、消息は戦争が終わるまでわかりませんでした。彼女は子供たちの命を守ろうと、山奥の修道院のシスターたちに預けました。自分は隠れ家から隠れ家へと逃げ回り、息をひそめて生きながらえました。やがて、子供たちも夫も帰って来ました。あまりにも厳しかったたくさんの困難を乗り越え、ぎくしゃくしながらも、少しずつ、少しずつ、昔の生活がよみがえってきました。夫は、日いっぱいの長時間労働をしています。子供たちは学校へ行きます。別れ別れの暮らしのあいだに、どうにもならない、悲しい運命の秘密と彼らは少しずつ折り合いをつけていったのでしょう。家族が一緒に暮らせる幸せが、いちばんなのです。

あなたにはそんな不幸せな秘密がありますか。
ないとしたら、それがどんなに幸せなことか、気づいていらっしゃるかしら。

 

また、下の文は、一番最後の頁です。様々な道を体験された方が老いて辿り着かれた境地に、心安らぐ思いがします。穏やかに受け容れられる安らぎです。

「おばあさん。もういちど、若くなってみたいと思いませんか?」
おばあさんは、驚いて、ためらうことなく答えます。
「いいえ」
その答えはやさしいけれど、決然としていました。
「わたしにも、若いときがあったのよ。わたしの分の若さはもうもらったの。
今は年をとるのがわたしの番」
彼女は人生の道のりの美しかったことや、山積みの苦難も知りました。
彼女の旅は厳しかった。
彼女の旅はこころ優しくもあった。
「もういちど、同じ道をたどってどうするの?だってわたしに用意された道は、
今通ってきたこの道ひとつなのよ」

 あなたは どう思うかしら・・・・?

                                平成26年1月6日

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「第200回 土よう子ども会」に寄せて

 土よう子ども会代表 濱田早苗

  平成25年3月9日、「土よう子ども会」が200回目を迎えました。

 振り返れば、平成7年4月8日が第1回目でした。
 当時、学校の週5日制が導入され始める頃で、旧青海町でも試みに第2土曜日が休日になった年度です。校長先生がしきりに地域での子どもたちの受け入れを要望されたものです。

 
 その当時、愛知県で中学生の自殺事件があったり、私も小学生の荒んだ光景を目の当たりにしたりしました。何かできることはないだろうか? - 一年かかって見つけたのが、「子どもたちに本の環境を」ということでした。

 立ち上げた時は、図書館もなく、読み聞かせに聞き入る子はいないと思ったので、映写会から始めました。16ミリ映写機の時代でしたから、映写機操作有資格者(私は既に取得)と部屋照明のスイッチ係が必要でした。当時高校生だった娘に頼み、二人でスタートしました。

 試行錯誤の連続でした。一本終わる毎にフィルムの巻き戻しがあり、その間は体を動かせるようにボールを何個も持って行きました。それでも、20分位の映画でさえ最後まで観ていられない子がいました。また、当時「町民会館」と呼ばれた会場の、近くの子どもたちは歩いて子どもだけでやって来、遠くの子どもは親御さんが車で送って来て置いて帰られるので、子どもの遊びを仕切ってくれる大人の方がいればなあ、と思ったものです。そのうち、遊びもしっかりやろうと、スマイルボーリングなどもやったりしました。

 2年目に、社会教育課の方から、「上越ライブラリーから補助を受けて、何かやってみないか?」とお話をいただき、色々考えて、その年にできた図書館の本を利用したいと思いました。何が出来るだろうか?… 考え付いたのが、絵本を拡大してスクリーンに映し、読み聞かせをしたいということでした。

 当時の技術で安価にそれを可能にしてくれるものは、結局OHPでした。そして、それも結局、手描きしかなかったのです。限られた色のマジックで何枚も描かなければならないと分かった時、私一人では無理だと知り、絵の上手い友人二人に助けを求めました。そして出来上がったのが、「100万回生きたねこ」で、抜き差し二人に読み手一人の三人で、会で上演しました。結構長い本にも拘らず、最後までじっと聞き入ってくれたことは、私には嬉しい驚きでした。これを機に、OHP作品は24作となり、読み聞かせの基を築いてくれました。その時助けてくれた友人の一人、八木さんは、今でも会を助けてくれています。

 3年目から、図書館に請われて「青海総合文化会館2階講座室」で行うようになりました。
 5年目の秋、図書館の方から「ブックスタート」の記事を紹介され、やってみないかと持ちかけられました。幼い子への読み聞かせは家族がするもの、と思っていたので、ましてや0歳児への集団読み聞かせはためらいました。でも当時、子どもたちを見ていて、「3歳では遅い、遡るなら0歳だ」と考えていた私は、やってみようと思い、翌平成13年5月、「おやこ文庫『アイアイ』」をスタートしました。

 毎月2回の「アイアイ」も、道のりは平坦ではなかったけれど、今「土よう子ども会」で活躍している子どもたちを眺めると、彼らはみんな、アイアイ卒業生であることを知らされます。決して無駄ではなかったと知らせてくれるのです。

 先日の「第200回土よう子ども会」に来てくれた4歳のムー君も、昨年「アイアイ」を卒業し、この春5年生のお姉さんやご両親と一緒に、引き続き、子ども会に来てくれています。大人たちに交じって子どもたちも読み手になるようになって、10年程になりますが、ムー君も前月に引き続き、200回目の日も一人で読んでくれました。
 いつもは読み聞かせの後、工作と映画で終わるのですが、たまたまいつもの講座室が使えず、スクリーンがないことから工作だけにしました。時間が取れることから、200回を記念したものを、と考え、ちょうど公民館報で知った“素焼きに絵付け”を思いました。昨年暮れに青陶会の方にお願いした処、1月から30個作成に取り組んで頂き、当日も4名の方々がご指導に来てくださいました。
 作業が終わり、全員の絵付けされた鉛筆立てが机の上に並べられました。ムー君に「ムー君の、どれ?」と尋ねると、「一番向こうの。青だけなの!」と指差しました。すぐに見つかりました。本当に青一色!ムラもなく、持った跡もない、みごとな青一色。後で思えば思うほど、どうやって塗ったのだろうと、不思議でなりません。
 窯で焼くので、各自に渡すのは来月の子ども会になることを話すと、そばにいたムー君はお父さんに向かって「来月、楽しみだねえ!」と、眼を輝かせて言いました。この時の彼の表情は、私の中で宝物となって刻み込まれています。赤いほっぺの、輝いた顔は、もう一度、心から嬉しそうに言いました。「来月、楽しみだねえ!!」

 閉会を告げて顔を上げると、すぐそばに花束を抱えたムー君が!… その意味を理解するのに、少し時間が要りました。やっと分かった時、目から熱いものが溢れてしまっていました。今思うのは、私の目につかないように、最後の最後まで隠しておいてくださった皆さんの心遣いです。お祝いしてくださった皆さんに、深く深く感謝するばかりです。

 こうして皆さんに支えていただきながら辿り着いた200回。これから老いる一方で、今まで以上に益々お世話になることと思いますが、もう少し頑張ってみようと再確認する「200回」通過点です。楽しみな「来月」が、もうすぐやって来ます。

                               (2013年(平成25年)4月7日)

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第8回 おやこ文庫アイアイのこと

 長男が一歳の頃から丸7年アイアイに通いました。長女、次女はそれこそお腹にいるときから絵本を楽しんできたことになります。

 正直にいって私は子供と遊ぶことが苦手、公園もお散歩も買い物もめんどくさーい、ままごともお絵かきも工作も一緒にやるのはめんどくさーい、そんな中で唯一面倒くさがらずに子供と遊べたのが絵本でした。絵本の中にはその年代ごとの子供の姿が描かれていて、おむつはずしもいやいや時期も、赤ちゃん返りに好き嫌い、入園入学、困った時はいつでも絵本が子育ての助けになっていた気がします。それとともに絵本の中の子供を見守るお母さんの姿に自分を重ね合わせて反省の毎日・・・

 アイアイでの7年間は私にとって、子育ての間のほっとひと息つける大切な時間でした。読み手のかたのそれぞれの個性あふれる絵本選び、子育ての苦労話や笑える話、子供たちもたくさんの絵本に囲まれて次々と読んでほしい絵本をもってやってくる、そんな素敵な時間を用意してくださったスタッフの方々、そして濱田さん、本当にありがとうございました。

                                            (2012年4月14日)

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「クリスマス」を思う―護るべき子どもの環境

 土よう子ども会代表 濱田早苗

 

 赤い服を着たサンタさんに私が初めて会ったのは、4歳か5歳の時です。

 今はもう半世紀以上も前のことで、黒姫山の麓にひしめき合うように電化工場の社宅が建ち並んでいた頃のことです。南社宅と呼ばれ、その中に洗心町、稲荷町、曙町、末広町、春日町など色々な町名の長屋があり、私は住吉町に16の夏まで住んでいました。車はお医者さんの車が来る位で、それも滅多にないことでしたので、一歩玄関を出ると外は全てが遊び場でした。幼稚園は一年制で、南社宅内にある電化付属の幼稚園でした。我が家にサンタさんが昼間やって来たのですから、入園前のことと思います。父が当時民生委員を務めていて、役場の方が幼稚園のクリスマス会の帰りに父に用があって来られたと、後になって知りました。玄関に出て行ったら赤いサンタさんがいて、プレゼントをもらったことだけはこの年になっても忘れられません。そのプレゼントが黄色いキャラメルの箱でした。

 

 今思うと、その黄色い一箱と赤い衣装が私のクリスマスの原点だったと思います。その後、12月24日は何か貰える楽しみな日になり、その夜は早く床に入ったものです。勤めから帰って疲れていた筈の父は、夕食後、当時今の北斗町にあった銀林書店まで歩いて品物を買い求めに行きました。狭い家ですから、眠れずに床の中にいる私には買ってくる物を説明する母の声も、出かけて行く時そして帰って来た時の父の音も、みんな聞こえました。予め欲しい物を母に伝えており、翌朝の枕元にはその通りの物が置いてありました。何年生まで続いたものかは覚えていませんが、当時回し読みしていた月刊少女雑誌が多かったです。木琴だったこともあるのは、眠っていた幼い頃のことでしょうか・・・。

 時は流れて、今から25年位前のことになります。
小学校では冬休み前に青少年育成協議会が開かれます。委員だった私は風邪をひいて会議を欠席しました。すると翌日、4年生の息子が会議の資料を預かって来ました。それを読んでびっくりしました。冬休み明けに全児童に対して「クリスマスとお正月に、誰からいくら位もらったか調査をする」とあったのです。1年生の娘はサンタさんの存在を信じていましたので、早速校長先生に手紙を書き、この調査は大人の視点からのものなので、もう一度お考え頂きたいとお願いしました。翌朝息子に託すと、朝のうちに校長先生からお電話があり、「手紙を読んでほのぼのとしました。生活指導の先生と相談して取り止めるようにします。」と言われました。お聞き入れいただき大変嬉しく、子どもの心を護ることができて良かったと思いました。

 さらに時は流れて、5年程前のこと。毎年5月に「絵本とともだち!なかよしフェスタ」を開催していますが、大スクリーンに映すのに、絵をパソコンに取り込みます。その作業は大変な仕事ですが、毎年子ども会の男性スタッフがやってくださいます。その年も取り込みが終わり全員で読みの練習をしていました。「うずらちゃんのかくれんぼ」を読み終わった時、別の絵本の付き添いで来ていたお母さんが申し訳なさそうに声を出しました。「すみません…。」 ―下の娘さんがこの本が大好きで、特に最後のページの隅っこにいる蛙が好きなのに画面にはその蛙が映っていなかったということでした。絵本には確かにいます。それでもう一度そのページだけ取り込みのし直しをお願いした次第です。

 さらにさらに時は流れて、昨年のこと。図書館の絵本の表紙にシールが貼ってありますが、それまでは絵に差し障りのない所に貼ってあったのが、主人公の顔を覆って貼ってあるのが何冊も目立つようになりました。子どもの心にはお構いなしという事務的扱いに抗議を申し出たところ、紆余曲折を経て今は改善されました。これも、子どもの心を傷つけることが増えなくて良かったです。
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 皆様、良いクリスマス、良いお正月をお迎えください。来春までどうぞお元気で。

                                    (平成23年12月17日)

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第6回 「おそざきのレオ」によせて

「レオはなにをするのもへたくそです」「じをかくことができません」「えをかくこともできません」…出来ないことがいっぱいで始まる『おそざきのレオ』を手に取った時、まるで娘のことのよう!と何だか気になり、引き込まれて読みました。(娘にはたいへん失礼な話ですが

「このこはいったいどうなっているんだ」と心配するおとうさんにおかあさんは言います。「なんでもないのよ このこは おそざきのはななの あとでりっぱなはながさきますよ」

それでも心配なおとうさん、やきもきして落ち着かないので、レオを見る代わりにテレビを見ることにします。(そうはいうものの、絵ではイスのすき間からしっかりレオを見ています。)

「おとうさんはみていませんでしたが レオは はなひらきませんでした。」この言葉が何回も繰り返されます。なかなかはなひらかないレオですが、ついにはなひらく時がきました。

「じをかくことができました」「えをかくこともできました」…娘への思いと重なり、嬉しく、熱いものが込み上げてきました。

1年ほど前に、Kさんがアイアイでこの本を読まれた後、「できない、できないと思っていたけれど、改めて見てみるとちゃんとできるようになっている。このおとうさんのように、見ているということが大事…」とおっしゃっていました。本当にそうだなあ~と思います。

事情があり、娘はこの1年家で過ごしました。その間、娘のいろいろな できる に気付きました。

人の輪の中にすうっと入っていけたり、私が疲れて寝てしまった時には、そおっと食事の後かたづけをしてくれる等の気遣いができたり、声をかけなくても、朝6時からはじまるラジオ講座をずっと聞き続ける自律の心があったり…。

きっと、これらのことは、もっと前からできていたことなのかもしれませんが、娘のさまざまな できない に目を向ける余り、私はちゃんと娘を見ていなかったのだと思います。

春から新しい一歩を踏み出す娘。これからも、さらに花を咲かせてくれることでしょう。

その花をボーッとして見逃してしまわないよう、ちゃんと見ていかなければと思います。

                                                (あき)

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第5回 新訳「おおきな木」(シェル・シルヴァスタイン 村上春樹訳 あすなろ書房) を読んで(一読者の感想)

土よう子ども会代表 濱田早苗

 村上春樹氏の訳で「おおきな木」が出版されたことを新聞で知り、早速図書館で手配しました。
 後日図書館から連絡をもらって借りてき、どこがどんなふうに違っているのか、胸を躍らせながら頁をめくりました。まず、最初の頁に「ニッキーに」とあり、これは旧訳の本にはなかったなと思いながら、新訳に一層胸を膨らませて読み進めました。そして、最後の方で確実に異なる訳に出会いました。旧訳はこうではなかったはず、と半ば興奮状態で、翌日また図書館で旧訳(本田錦一郎訳 篠崎書林 1976年初版)を借りて来た次第です。

 皆さんご存知のように、原題は「THE GIVING TREE」。小さな男の子が成長して老人になるまで、木が自分の身を削りながら与え続けるお話です。
 旧・新訳の2冊を比べながら読んでみて、どちらが良いとは言えるものでもありませんが、気になった点を最初の方から列挙してみます。

① 表紙の見返しが、旧は緑なのに対して新は白紙である。
   (「こどものとも」の創刊者、松居 直氏は著書「絵本のよろこび」(NHK出版)の中で、見返しの色はお話の導入として重要な意味があり、毎回苦労する、と書いておられました。それを知ってからは、読み聞かせの会では必ず見返しも丁寧に見せるよう心がけています。そういう意味では、白紙より緑の見返しに惹かれます。)

② 文体、表記が異なり、旧は体言止めや言い切りの文体なのに対して、新は「です・ます体」である。
  (例えば:旧は「むかし りんごのきが あって…   
                        かわいい
           ちびっこと
           なかよし。」
        新は「あるところに、いっぽんの木がありました。
                        その木は
           ひとりの少年の
           ことが
           だいすきでした。」
 新訳は、木は少年が大好きと言っているのは嬉しく、全体的に丁寧でやさしい感じがします。でも、歯切れがよくて読み聞かせしやすいのは、読み慣れているせいか旧訳かなと感じました。)

③ 木の喜びの表現が、旧は「うれしかった」であるのに対して、新は「しあわせでした」である。
  (例えば:旧は「ちびっこは きが だいすき…   
                        そう とても だいすき。
           だから きも うれしかった。」
        新は「少年はその木がだいすきでした…  
                        だれよりもなによりも。
           木はしあわせでした。」
   ここ数日間、この二つの言葉について色々考えました。「嬉しい」ということは日常の中でも時々あることですが、「幸せ」と感じることは頻度としてはそれ程ないことで、重みのある言葉だと思います。また、前者はある事象に対しての感情で一時的なものであるのに対して- 実際少年が大きくなって長い間来なかった時、木は悲しくなりました -、 後者は深い裏付けによって意識され、ある程度持続する思いではないかと考えます。どちらの表現を好むかは、読者の年齢によっても違ってくるでしょうが、還暦を過ぎた私は、自身の心を探求する今後の課題です。)

④ やがて大きくなった少年に、実も枝も幹も与え尽くした木の思いの訳が異なる。
  (旧:「きは それで うれしかった… 
            だけど それは ほんとかな。」
   新:「それで木はしあわせに…    
             なんてなれませんよね。」
   私が最初に記した「確実に異なる訳」の部分です。「ほんとかな」と読者に投げかける旧訳は本当にどうだろうかと考えさせてくれました。それに対して新訳は「なれませんよね」と考えさせる余地はありません。原文を調べたところ、「And tree was happy…  but  not  really」となっていて、村上氏の訳が原文に近いことが分かりました。そんな二つの訳にも共通点があり、原文と違い、この部分だけ読者に話しかける格好になっていることです。)

⑤ 全体を通して、新は一貫して「少年」であるのに対して、旧は3通りの言葉で表している。
    (3通りは、「ちびっこ」・「そのこ」・「おとこ」と、成長するにしたがって変わっています。一気に読む大人にすれば、少年が老人になっても木にとっては「少年」なのだから、違和感がないかもしれません。しかし、子どもたちに読み聞かせる時は、長い時の流れを感じ取ってもらえるように、変えた方が分かりやすいように思われます。)
 
 異なる細かい箇所はまだまだありますが、私が特に気になった点を挙げさせて頂きました。
 村上氏はあとがきで原題の訳について、「長く読み続けられた本なので、混乱を避けるために『おおきな木』という元の題はそのまま使わせていただきました。」と結んでおられますが、真のところ何という題にされたかったのだろうと興味があります。
 私もこれを書いている間に考え付いたことですが、「おおきな木」は外観ばかりでなく、内面も寛大である意味を併せ持っているのではないかと思います。このことから、④について再考すると、与えるものがなくなってしまった以上、もう少年はやって来ないことを覚悟しても、心も大きかったなら、木は嬉しかったはずなのです。結局最後は、また戻って来た少年に腰掛けられて、「きは それで うれしかった。」のですから。
    
  「翻訳者が物故され、出版社が継続して出版を続けることができなくなったという事情」から訳をあらためることになったとのことですが、お忙しい村上氏がそれだけこの絵本に魅力を感じられて訳に取り組まれたことを一読者として大変嬉しく思います。そして、この本が後世に読み継がれていくことを想像し、心温まる思いです。

                                        (2010年9月26日)

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第4回 「おこだでませんように」(くすのき しげのり・作 石井聖岳(いしい きよたか)・絵 小学館) に寄せて

土よう子ども会代表 濱田早苗

 6月12日の「土よう子ども会」で読んだ絵本で、七夕を前に、これを選びました。
 この本は2008年6月発行で、昨年の「読書感想文全国コンクール課題図書(小学校低学年の部)」になり、「アイアイだより 101号」でも紹介させて頂きました。

 作者は小学校の先生で、実際にそう書かれた短冊を見て涙が出そうになった思いから生まれた絵本だということです。

「ぼく」は、1年生で、家でも学校でもいつも怒られてばかり。そして7月7日、七夕様のお願いを短冊に書く授業があった。友だちはみんなどんどん書いていく。
ぼくは かんがえた。いちばんの おねがいを かんがえた。いっしょうけんめい かんがえていると、「はよう かきなさい」と、また おこられた。ぼくは、しょうがっこうに にゅうがくしてから おしえてもらった ひらがなで、 いちばんの おねがいを かいた。ひらがな ひとつずつ、こころを こめて かいた。 お こ だ で ま せ ん よ う に

 作者の「あとがき」の最後には、こう書かれています。

子どもたちひとりひとりに、その時々でゆれうごく心があります。そして、どの子の心の中にも、このお話の「ぼく」のような思いがあるのです。どうか、私たち大人こそが、とらわれのない素直なまなざしをもち、子どもたちの心の中にある祈りのような思いに気づくことができますように。

 このように、この絵本は大人に働きかけるものでもあります。子どもの心に寄り添う、ということは大変難しいもので、私も失敗ばかりですが、気づくか気づかないかは大きな違いです。まず気づいて、寄り添うように心がけたいものです。
  
 「子どもの心に寄り添う」ことに関連して、2冊の本を紹介します。
 1冊は絵本「ママがおこるとかなしいの」(せがわ ふみこ作 モチヅキ マリ絵 金の星社、「アイアイだより78号」で紹介)で、作者のあとがきに出てくる「親業」つながりから、もう1冊が大人向けの本「『親業』に学ぶ子どもとの接し方」(近藤千恵/著 新紀元社)です。前者はメグちゃんの心に寄り添う一例であるのに対して、後者はいくつもの事例を挙げてあり「寄り添う」ことのテクニックが見えてきます。
「アイアイだより79号~90号」に連載しましたが、本は糸魚川市青海図書館にありますのでご一読下さい。

 最後に、良寛さんの和歌を2首添えます。(「良寛 こころのうた」 <全国良寛会>より)
 ・世の中の 憂(う)きも辛きも 情けをも わが子を思ふ ゆゑにこそ知れ
(老婦人を描いた絵に題しての賛である。 世間の悲しさ、つらさ、苦しさ、思いやりなどの感情は、みな自分の子を思うことから理解できるものなのだ。)

 ・いかなるが 苦しきものと 問ふならば 人をへだつる 心と答へよ

                                     (平成22年6月17日)

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第3回 「むくどりのゆめ」(浜田廣介・作 いもとようこ・絵 白泉社)に寄せて

土よう子ども会代表 濱田早苗

 4月10日に開かれた「土よう子ども会」で、それぞれ進級した子どもたちに聞いてみました。
「今まで本を読んでもらったり自分で読んだりして、泣いたことがありますか?」
 幼稚園年少組から小学3年生までの年代の子どもたちですが、全員首を振って、「なぁいー」との答え。 

 私が母から聞いたり、読んでもらったりした話で、初めて涙が出たのが「むくどりのゆめ」でした。
 同じ廣介童話、「ないたあかおに」の青鬼の最後の手紙にも涙が出たけれど、先に読んでもらったのが「むくどり」だったように思います。5歳位だったでしょうか…。
 母は和裁の仕立て屋をしていました。家事・子育てをしながらの内職でしたが、昼間ラジオで聴いた童話を、夜眠る前に妹と私の間に寝て話してくれることが日課でもありました。いつ買ったのか、分厚い「ひろすけどうわ」という本を読んでくれたりもしました。絵のない、全く字だけの黄色い表紙の本でした。初めて涙が出たのは、それを読んでもらった時のことだと思います。
 「母が死んだ!」という夢を幼い頃からよく見たものです。「むくどりのゆめ」を聞いてから夢を見るようになったのか、夢を見たから「むくどり」に涙が出たのか、どちらが先だったのかは覚えていません。ただ忘れられないのは、母が死んだという夢を見ては泣きじゃくって目を覚まし、夢だったと分かった時はどんなに嬉しかったことか!… 母には夢の話は伝えたことはなく、ただいつものように生きていてもらえたことが奇跡のようで、子ども心に有り難かったものでした。母が亡くなる夢は、成人してからも時折見ました。夢から覚めるその度に、夢で良かったと心の中で小躍りしたものです。
 しかし、何十回と見た夢が、遂に現実となって私の前に現れました、つい先日の3月26日、雪の朝に…。来る時が来たと知った時、涙は出ませんでした。夢で泣きじゃくった分、涙は枯れていたのかもしれません…。
 4月の「土ようこども会」でこの本を読むことを決心し練習した時、1回目は涙が溢れて最後は涙声になってしまいました。これではいけない、と、間をおいて練習しました。そして、あとは本番の自分に委ねることにしました。本番は涙声にならずに読むことができて安堵した次第です。

 桜が満開のこの頃、去年車の助手席に母を乗せて青海地内の桜を見て回ったことを思い出します。今年の桜を見せることはできなかったけれど、正月の一日・二日と連日、母の唯一の娯楽といえる花札(賭けなし)を家族で楽しんだことが今年の思い出です。点数の数え方も合っていたし、トランプより花札が楽しそうでした。終わると必ず「誰が一番だったん?」と聞き、次の準備をしている間にも、「今の、誰が一番だったん?」と同じことを聞く母でした。誰が一番でも、納得したように微笑んでいましたが、なかなか母が一番になることはなく、やがて母が一番になった処で終わりにしたものです。
 年をとると子どもに帰ると言いますが、米寿の母もそうでした。「アイアイだより106号」でお伝えしたように、0歳からの親子の力関係はXの形で表され、親の力「\」は最後には子どもに戻ることを表しています。外を歩く時、お風呂に入る時、私の手をしっかり握り締め、何かあると私の名前を呼んだ母。― 昔、私が泣きじゃくって目覚めた頃は、母を慕うと共にいなくなられたら困ることだらけだったのに、私が還暦を超えた今、母がいなくても生きていける力を備えていたことを改めて知らされます。ここまで生きてくれたことに感謝するのみです。幼い頃から病弱だった私は、母にどんなにか苦労をかけたことか…。
 最後に、生前母が言っていた言葉の中から、「アイアイだより」にも載せた暁烏敏(あけがらすはや)氏の歌を再掲します。

  十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母ありなむや                
                                      (平成22年4月18日)

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第2回 10年目を迎える おやこ文庫「アイアイ」

土よう子ども会代表 濱田早苗

1 「アイアイ」設立の経緯
 平成5・6年、当時の小学生たちの荒んだ光景を目の当たりにし、子どもたちを取り巻く環境の一因子として何か心を潤すことができないものだろうかと考え続けていました。
 そんな折、大江健三郎氏のノーベル文学賞受賞記念講演の一節に出会いました。「幼い時にお母さんから与えられた2冊の本が、一生を支えて来た根底にあった」という箇所で、私自身も色々な本に支えられて来ただけに、「子どもの頃の本の環境」に共鳴しました。早速当時の町社会教育課にお願いし、翌7年4月から「土よう子ども会」と名付けて映写会から始めました。照明のスイッチ係として当時高校生だった娘と二人で始めたのですが、20分程の映画を最後まで見られない子がいて、幼稚園からでは遅すぎると知らされました。それではどこまで遡ればよいのか、いくつかの既成団体へ出かけてみた結果、0歳に辿り着きました。しかし、0歳に働きかける手段が見つからず捜し続けていました。
 そんな時、図書館の方から「ブックスタート」の印刷物を渡され、やってみないかと持ちかけられました。92年にイギリスで始まった0歳児への読み聞かせ活動で、親子のコミュニケーションを深めるのが目的とされていました。その時の私は、幼児への読み聞かせは親が子にするものであって、集団に向けて、ましてや0歳児へは無理なことだと思いました。でも、日が経つにつれ、遡るなら0歳児だったのだからやってみようと決心し、「おやこ文庫『アイアイ』」と名付けて、13年5月にスタートしました。

2 活動内容
 毎月第2・4木曜日、10:30~11:30、青海総合文化会館のリハーサル室でカーペット2枚の周りに50冊程の絵本を並べて、親子で読んでもらったり、読み聞かせを行ったりしています。紙芝居や手遊びのほかに、乳幼児を寝かせて歌に合わせての脚や股関節のストレッチ体操も、参加者であるお母さん方の指導で取り入れています。利用してくださっているお母さん方が、積極的に絵本の読み手になって下さるようになったことも、大変喜ばしいことです。5・6ヶ月児がみんなと絵本に見入る姿も嬉しいですし、お母さんに任せてストレッチされている時の子どもたちのうっとりと気持ち良さそうにしている表情も大変微笑ましいです。
 毎月後期には「お誕生会」、12月は「クリスマス会」、3月は「入園おめでとう会」も行っています。

3 「アイアイ」卒業生の活躍
 卒業生の中には夏休み・春休みになると、「アイアイ」で読み手に加わってくれる子もいます。また、引き続き「土よう子ども会」へも来てくれ、大人に交じって本を読んでくれる子も出てきました。お気に入りの絵本を持って来て、みんなに向けて楽しそうに読む姿は、「土よう子ども会」に欠かせない光景になっています。
 先日1月30日に開催された「子ども読書地域スクラム交流会」では、「土よう子ども会」として3冊の絵本を読みましたが、1冊は小学2年生のアイアイOGが読んでくれました。大スクリーンを使っての披露だったのですが、3冊のパソコン操作は1年生のOGが練習を重ねて堂々と務めてくれました。二人の姿に、アイアイ9年を経た感慨がありました。
 それぞれの子どもたちの発達・成長を、これからも応援していきたいと願っています。

(平成21年度「上越の生涯学習・芸術文化・文化財」掲載)

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第1回 土よう子ども会趣意書

 コラム第1回目は、土よう子ども会の活動をはじめるにあたって濱田早苗代表が作成した趣意書を、ほぼ原文のまま掲載します。

 長文ですが、ご一読いただければありがたいです。

「土よう子ども会」設立希望趣意書    平成6年11月

① 地域社会から見た子供たちの現状

 昨年10月、街頭募金でハピー田沢店の前に立った時のことである。
 4時頃から小学3年生位の男子3人が、店に入ったり出たりしながら、店の前から離れずにいた。そのうち、ボランティアの女子中学生の悲鳴が聞こえたので行って見ると、小学生の内の一人がナイフで募金箱を傷つけた、とのこと。ナイフは鉛筆削り型の鞘付き小刀で、「要るので、ポシェットに入れていつももっている。」ということだった。その場は、中学生に謝らせることで治めたが、しばらくすると今度は、店頭の品にナイフを向け出したので、「悪いことだということ、わからんがん?」と問いかけた。悪いことをしているという意識が全くない様子だったのだ。やがて5時になったので、家へ帰るよう促すと、「僕のうちは、5時半までいいんだもん。」とのこと。暗くなった頃、子供たちの姿はなくなった。
 街頭募金に立つようになって12年になるが、悪びれもしない子供たちの実態を目の当たりにしたのは初めてであった。その後、このことが頭から離れず、荒んだ子供たちの心を潤せるものはないだろうかと、捜し続けてきた。
 そして、ことしの秋。同じ所で、同じ時刻頃、再び似たような、子供たちの事実を目にした。学校から帰宅後、外へ出て再び家へ帰るまでの時間に、どうかすると悪い方向へ進んでしまう子供たちがいる、ということは、もう見逃せない事実であった。このことは、同じ地域に住む大人としてショックであり、児童委員として深刻視せずにいられないことであった。何かしてやらなければならない、という義務を感じたのである。
 生まれたばかりの時の無垢な心は、成長と共に良い芽も、悪い芽も出てくるものである。そこで、できるだけ良い面を育ててやることが「教育」であり、それを支えてくれるのが「環境」である、と考える。物質的に整えられた環境も大切であるが、より大切なのは、目では捕らえられない心を育てる「環境」である。物が豊かになり、目に見える環境を追求しがちな現代にあって、目にはハッキリ見えない精神面の「環境作り」を私は重視したい。

② 家庭教育から見た子供たち

 現在19歳と16歳の子供を持つ母親として、「子供を育てる」ということの一片に触れてみたい。
 私は専業主婦であるが、たまに勤務する時期がこの十年間に何回かあった。その時感じたことは、一歩玄関を出たら全く独身と同じである、ということだった。職場では仕事に集中しなければならない。帰ると疲れてしまって、子供が話しかけてきても(勝手にしたら…)と思ってしまうことが度々であった。「親は親、子は子」の生活を垣間見た時、子供に対して余裕を持った心で接してやられないことを、すまないなぁ…、と思ったものである。
 家事の掃除は、手抜きをするとチリが積もって怠慢が目に見えて分かるが、子育ては手抜きをしても決して目には見えることはない。手抜きを手抜きと見る目さえも、曇っていってしまうのである。恐ろしいことだと感じた。子供の心を温かく迎え入れてやるには、親の心に余裕がなければならないことを知らされた。何も言えない子供の心を察知することは、親として重要な仕事であり、とても難しいことでもある。

③ 今、私ができること

 以上①、②のことを通して、私にできることは何か、捜し続けてきた。この思いに拍車をかけたのは、今年11月末から全国的に相次いだ小・中学生の自殺である。決して他人事ではなく、当町にも通用するものが秘められている。今、ここで何かをしなければ…。何もせずにいるよりは、少しでも何かができれば…―そう考えている時に、私が出会ったのはノーベル文学賞受賞の大江健三郎さんの講演の中の一節である。子供の頃、お母さんに与えられた二冊の本が、大江さんの一生を支えてきた根底にあったということ、その内の一冊が「ニルスのふしぎな旅」であったということ―。私自身、いろいろな本によって支えられてきたものが大きかっただけに、”子供の頃の本の環境”は、共鳴せずにいられなかった。
 「心が豊かである」ということは、感動できる場が豊富であり、感動する度合も豊かである、ということだと私は考える。直接体験による感動が一番だが、これは時間的、空間的に限られてしまう。その点、間接体験できる「本の世界」は、いつでも、どこでも、その気さえあれば、体験できるのである。そして、そういう二次的体験できる良い本はたくさんあり、二次的体験で心を広げ、潤し、より豊かな心を持ってほしいと願うことから、私のできることを捜し出した。
 初めは「本の読み聞かせ」をと思い、家族に相談した処、今どき読み聞かせに耳を傾ける子はいないのはないか、ということで、映写会から始めることに決めた。また、子供はどうしても体を動かさずにいられないから、合い間に体を動かすゲームも取り入れたい。

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