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第5回 新訳「おおきな木」(シェル・シルヴァスタイン 村上春樹訳 あすなろ書房) を読んで(一読者の感想)

土よう子ども会代表 濱田早苗

 村上春樹氏の訳で「おおきな木」が出版されたことを新聞で知り、早速図書館で手配しました。
 後日図書館から連絡をもらって借りてき、どこがどんなふうに違っているのか、胸を躍らせながら頁をめくりました。まず、最初の頁に「ニッキーに」とあり、これは旧訳の本にはなかったなと思いながら、新訳に一層胸を膨らませて読み進めました。そして、最後の方で確実に異なる訳に出会いました。旧訳はこうではなかったはず、と半ば興奮状態で、翌日また図書館で旧訳(本田錦一郎訳 篠崎書林 1976年初版)を借りて来た次第です。

 皆さんご存知のように、原題は「THE GIVING TREE」。小さな男の子が成長して老人になるまで、木が自分の身を削りながら与え続けるお話です。
 旧・新訳の2冊を比べながら読んでみて、どちらが良いとは言えるものでもありませんが、気になった点を最初の方から列挙してみます。

① 表紙の見返しが、旧は緑なのに対して新は白紙である。
   (「こどものとも」の創刊者、松居 直氏は著書「絵本のよろこび」(NHK出版)の中で、見返しの色はお話の導入として重要な意味があり、毎回苦労する、と書いておられました。それを知ってからは、読み聞かせの会では必ず見返しも丁寧に見せるよう心がけています。そういう意味では、白紙より緑の見返しに惹かれます。)

② 文体、表記が異なり、旧は体言止めや言い切りの文体なのに対して、新は「です・ます体」である。
  (例えば:旧は「むかし りんごのきが あって…   
                        かわいい
           ちびっこと
           なかよし。」
        新は「あるところに、いっぽんの木がありました。
                        その木は
           ひとりの少年の
           ことが
           だいすきでした。」
 新訳は、木は少年が大好きと言っているのは嬉しく、全体的に丁寧でやさしい感じがします。でも、歯切れがよくて読み聞かせしやすいのは、読み慣れているせいか旧訳かなと感じました。)

③ 木の喜びの表現が、旧は「うれしかった」であるのに対して、新は「しあわせでした」である。
  (例えば:旧は「ちびっこは きが だいすき…   
                        そう とても だいすき。
           だから きも うれしかった。」
        新は「少年はその木がだいすきでした…  
                        だれよりもなによりも。
           木はしあわせでした。」
   ここ数日間、この二つの言葉について色々考えました。「嬉しい」ということは日常の中でも時々あることですが、「幸せ」と感じることは頻度としてはそれ程ないことで、重みのある言葉だと思います。また、前者はある事象に対しての感情で一時的なものであるのに対して- 実際少年が大きくなって長い間来なかった時、木は悲しくなりました -、 後者は深い裏付けによって意識され、ある程度持続する思いではないかと考えます。どちらの表現を好むかは、読者の年齢によっても違ってくるでしょうが、還暦を過ぎた私は、自身の心を探求する今後の課題です。)

④ やがて大きくなった少年に、実も枝も幹も与え尽くした木の思いの訳が異なる。
  (旧:「きは それで うれしかった… 
            だけど それは ほんとかな。」
   新:「それで木はしあわせに…    
             なんてなれませんよね。」
   私が最初に記した「確実に異なる訳」の部分です。「ほんとかな」と読者に投げかける旧訳は本当にどうだろうかと考えさせてくれました。それに対して新訳は「なれませんよね」と考えさせる余地はありません。原文を調べたところ、「And tree was happy…  but  not  really」となっていて、村上氏の訳が原文に近いことが分かりました。そんな二つの訳にも共通点があり、原文と違い、この部分だけ読者に話しかける格好になっていることです。)

⑤ 全体を通して、新は一貫して「少年」であるのに対して、旧は3通りの言葉で表している。
    (3通りは、「ちびっこ」・「そのこ」・「おとこ」と、成長するにしたがって変わっています。一気に読む大人にすれば、少年が老人になっても木にとっては「少年」なのだから、違和感がないかもしれません。しかし、子どもたちに読み聞かせる時は、長い時の流れを感じ取ってもらえるように、変えた方が分かりやすいように思われます。)
 
 異なる細かい箇所はまだまだありますが、私が特に気になった点を挙げさせて頂きました。
 村上氏はあとがきで原題の訳について、「長く読み続けられた本なので、混乱を避けるために『おおきな木』という元の題はそのまま使わせていただきました。」と結んでおられますが、真のところ何という題にされたかったのだろうと興味があります。
 私もこれを書いている間に考え付いたことですが、「おおきな木」は外観ばかりでなく、内面も寛大である意味を併せ持っているのではないかと思います。このことから、④について再考すると、与えるものがなくなってしまった以上、もう少年はやって来ないことを覚悟しても、心も大きかったなら、木は嬉しかったはずなのです。結局最後は、また戻って来た少年に腰掛けられて、「きは それで うれしかった。」のですから。
    
  「翻訳者が物故され、出版社が継続して出版を続けることができなくなったという事情」から訳をあらためることになったとのことですが、お忙しい村上氏がそれだけこの絵本に魅力を感じられて訳に取り組まれたことを一読者として大変嬉しく思います。そして、この本が後世に読み継がれていくことを想像し、心温まる思いです。

                                        (2010年9月26日)

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